妙に攻撃的になることがある

前からそういう傾向が自分にあるのはうすうす感じていたのだが…。妙に攻撃的になることがある。

 

まず、人がたわけたことを言っていると、叩きのめしたい衝動に駆られる。衝動に駆られるだけではなく、実際それを行動に移してしまう。さすがに、叩きのめすようなことはしないが(…すくなくとも本人としてはそういうつもり)、かなり手厳しいことを言ってしまっていると思う。そういうことが許されないような状況だと、そういう衝動を押さえ込むのに本当に苦労する。

しかし、これを相手のためとかいうのは偽善以外の何者でもないことは自分でも分かっているつもりだ。本人がたわけたこをを言ったりやったりして、結果として本人が困るのは、本人の勝手ではないか。

 

多分、自分のやっていることが分かってない、ということに対して強い嫌悪感があるのだと思う。それの背後には、そういった意識の欠如が、この世の諸悪の根源である、という個人的な信念があるようだ。

悪人が悪意を持って行うことは比較的対処しやすい。なぜなら、本人にそれが悪だという意識があるから。難しいのは、「善人」が「善意」を持って行うことだ。一見よいことのように思えるが、善意があるからといって、実際周りに善の影響を与えられるとは限らない。「善意の行為」が、冷静に客観的に見たとき、巨悪になっていることはままある。

それを防ぐには、結局のところ、個人レベルで自分を客観的に見つめる努力を怠らないようにするしかない。

たわけた言動は、そういう努力をする気がさらさらないような人から出てくる。なので、ついそこで感情的に反応してしまうのかもしれない。その言動に、別に周りに影響を及ぼすだけの力がなくても。もっとも、そこでそういう反応の仕方をしてしまったら、そのたわけと大して変わらぬ次元に落ちてしまうのだが。

あと、やはり自分にとって思い入れが深いトピックについて、より攻撃的になるような気がする。

 

さて、ここまではまだしも、これから書くことは、より病的だ。

 

自分では決して認めたくないのだが、そういった自分の攻撃性のはけ口を探しているのではないかと最近恐れている。つまり、上に述べたような理由は口実に過ぎなくて、実は単に自分が本質的に攻撃的な人間なんではないか、ということだ。

mixiの投稿を眺めているときに、ふと、実は自分は単に叩く対象を探しているだけじゃないか、と思う瞬間がある。我ながら特にまずいと思うのは、そこで何かしら投稿した後、後で繰り返し自分の投稿を見直さずにおられないこと。そんなことをするのは、それが自分にとってある種の快感だからなのだろうが…なぜ快感なのだ?

マズローのいうところの、承認欲求が満たされてないのからかもしれない、と思ったりもする。そのため、そういう機会を探してしまう、という説明だ。

今の生活は、以前の自分には考えられなかったようなものだ。結果として、以前では考えられなかったような種類の人たちと接する機会が得られたこと、そして、彼らがどのように生きているかについて知る機会が得られたことは、自分の人生にとって非常に意義深いことだと思う。

しかし、その一方で、自分に相当するような人たちと接する機会が皆無になってしまった。結果として、自分の思想・哲学が人に認められることがない。英文ブログの方で、多少そういうことが起こってはいるが、やはり十分ではない。そこで、恒常的に承認欲求が満たされない状況におかれてしまっているのかもしれない。

 

このように書くと、なにやら危ない人間のように聞こえるだろうが…実際危ない人間なのかもしれないと自分で思う今日この頃。

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